一、神が降臨した興玉神石
天照大御神さまのお孫にあたる皇祖「瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)」さまを地上まで導かれた『猿田彦大神(さるたひこおおかみ)』さまが、天孫降臨の際に降り立ったと伝わる「興玉神石(おきたましんせき)」。
また皇女であられる倭姫命(やまとひめのみこと)さまもご遷幸の前には、天照大御神さまの御定によって、同じ磐座(いわくら)である興玉神石へと導かれたのです。
実はこの磐座、夫婦岩との間より北東650㍍の沖合いからでも見れたほどに、海面上から大きく出現していました。しかし1854年(安政元年)の大地震で海没してしまい、現在はその存
在を目で見て確認することが難しくなってしまったのです。
現在も神宮祭祀に深く影響をもたらし、神さまの依代ともされる興玉神石ですが、それは海没してもなお、夫婦岩を鳥居とする遥拝所として崇敬されているのです。
二、三種の神器を携えた倭姫命
第十代「祟神(すじん)天皇」の皇女であられる「豊鍬入姫(とよすきいりひめ)」さまの御後を継ぎ、第十一代「垂仁(すいにん)天皇」の皇女であられる「倭姫命」さまが天照大御神さまの御杖代(みつえしろ)となられたのです。
そして天照大御神さまの御定めを忠実に従い、「三種の神器」と共に、天照大御神さまが示される遷座地へと、大和の「笠縫邑(かさぬいむら)(現在の奈良県)」を発たれたのです。
これは日本建国史上、最大のミッションを託された皇女の巡幸物語となりました。
後に皇女は初代「斎王(いつきのみや)」と称されるようになったのです。
三、倭姫命をお迎えした「佐見都日女命(さみつひめのみこと)」とは?
「最終章の始まり」となる倭姫命さまの巡幸物語ですが、それは佐見津日女の案内によって、二見より始まったのです。
音無山の西麓には現在、皇大神宮の摂社「堅田(かただ)神社」が鎮座しておりますが、御祭神は『佐見都日女命(さみつひめのみこと)』(又は佐美津日女命)であります。
また「倭姫命世記」によれば、地元の国津神(くにつかみ)として登場しますが、その名前の由来は地名からであったと考えられるのです。
二見町教育委員会の二見文化誌によれば『二見は又は佐見(さみ)』とあり、また堅田神社のある地区名は二見町「三津(みつ)」とあります。
つまり佐見都日女は「佐見」二見の姫であり、三津は佐見の「津」(港)の姫から来ているのではないかと推測されるのです。
またこの堅田神社は、「皇大神宮儀式帳」によれば『内親王定祝』とあり、倭姫命さまから神宮の末社(現在は摂社)「堅多社」として定められた、極めて重要な神社である事も分かるのです。