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興玉神石と音無山を紐解く史実①

二見ふたたびプロジェクト

本来のシンボルである音無山

本来のシンボルである音無山

「元興玉社」の存在

伊勢の神宮では年間1500回もの祭祀を執り行っておられますが、中でも大祭といえば、10月の「神嘗祭(かんなめさい)」と6月、12月の「月次祭(つきなみさい)」の三節祭です。

たとえば10月15日の22時から始まる神嘗祭の前においては、重要な別の祭儀として17時には『興玉神祭(おきたまかみのまつり)』が執り行われます。
注目すべきは祭祀の内容とその意味が倭姫命さまによる巡幸の型を表しているのではないかと推測される事です。そこには、下記の類似点があるからです。

【倭姫命さまの巡幸】
①倭姫命さまが五十鈴の宮がある度会国(わたらいこく)の入り口、二見の興玉神石に辿り着く。
②佐見都日女により「禊と御饌(みけ)の祭祀」、すなわち祓い清めと食事の祭りを行う。
③五十鈴の宮へと辿り着き天照大御神さまの仰せのとおり三種の神器を神遷される。

【興玉神祭→神嘗祭】
①神職は御正宮内北西に鎮座する「興玉神」の御前に出向かれる。
②奉仕する神職が心身を祓い清め「神嘗祭前の祈念祭祀」つまり興玉神祭を行う。
③天皇陛下をはじめ、全国より収穫された初穂が届き、天照大御神さまと共に神嘗祭を行う。

いかがでしょうか。同じ行程を辿っているように思われませんか?
時を経て現在の神宮祭祀の「型」となっているように思うのです。

また驚くことに、二見の海に沈んだ「興玉神石」は、凡そ東西216㍍、横108㍍の大きな岩礁の霊石として海底で「音無山」と連なっていることが、平成22年の「名勝二見浦保存管理計画書」の発表にて明らかになったのです。

では、その明らかにされた興玉神石と連なる「音無山」とは一体どういう山なのでしょうか。そこには更にその音無山に鎮座する「元興玉社」の存在を紐とかずにはいられません。その鍵を握るのが元興玉社のある「太江寺(たいこうじ)」なのです。

史実にみる音無山の存在

実はこの太江寺は以前は江寺(えでら)と呼ばれており「元興玉社」でもあるのですが、日本最初の大僧正「行基(ぎょうき)668~749年」は何故この「音無山」に建立したのでしょうか。
行基は興玉神石と音無山が連なっている事の他にも大切な何かを霊的に感じていたと思えてなりません。

そして現在の夫婦岩を管理する二見興玉神社の御神霊は明治41年、音無山の太江寺から神遷されました。
また仏教界では伊勢国をお守りするべく「伊勢西国三十三箇所霊場」を現在に至るまで設けており、中でも「二番札所」である朝熊山「金剛證寺(こんごうしょうじ)」は、

『お伊勢参らば朝熊をかけよ、朝熊かけねば片参り』
と伊勢音頭の一節の中で歌われます。

この背景には神宮式年遷宮の再興の為に尽力された慶光院 三世「清順(せいじゅん)」さま、そして四世「周養(しゅうよう)」さまが眠るお寺であるが故に、神宮の参拝後には朝熊山へ御礼参りに上がられる様にと言い伝えたと思われます。

しかしながら先にも述べたように、この金剛證寺は西国三十三箇所霊場で言うところの二番札所であり、一番札所は「音無山の太江寺」なのです。

また国学者で神宮内宮の権禰宜(ごんねぎ)「荒木田(堤)盛徴(あらきだもりずみ)」の著した「神風小名寄(かみかぜこなよせ)1690年」の文献によると、音無山は、『豊受宮(高倉山)ノ御前なる山の名なり』とあります。
つまり豊受大神宮の前にも参拝しなければならない山を「音無山」と記しているのです。

天下泰平の世を示した神仏和合の江戸時代、幕末へと向かう文政13年のお蔭参りでは、日本の総人口が3000万人の中、わずか3ヶ月で500万人の民衆が挙って伊勢参りをしたという「文政のお蔭参り」があります。
多くの参拝者が宮川を渡り外宮へと参拝したと思われますが、神宮参拝の世話人『御師(おんし)』がいた時代ですから、歌川広重「伊勢名所 二見ヶ浦の図1847〜1851年頃」の大判錦絵にも描かれている様に、まだ海没していない興玉神石に先ずは訪れ、倭姫命さまと同じく敬拝をされ音無山から参拝していたのではないでしょうか。