時代に翻弄された音無山
かつてこの山頂には、遊園地があり、小動物園、観月台、旅館から展望台までもがあり、多くの観光客が訪れました。驚くべきはこの時代、昭和7年から17年まで、音無山と二見浦海岸を結ぶロープーウエイが運行されていたことです。
ところが太平洋戦争開戦と共に金属回収令によって武器生産に必要とする金属物資は国へと回収を余儀なくされました。
その結果、10年間繁栄をもたらした音無山遊園地は閉園と追い込まれ、そしてあの終戦を迎えたのです…。
今では想像し難くなってしまった戦後の日本。7年間、戦勝国軍最高司令官総司令部、いわゆるGHQによる占領統治時代を余儀なくされ、明治の御一新からの国家神道が戦争原因の根源と位置づけられ『天皇』と『神宮』は、建国以来、最大の危機を迎える事になりました。皇室では、今の憲法によって、天皇陛下による大祭祀の行為が、建国以来はじめて日本国の祀りから外されるという非常事態となりました。伏見宮をはじめ11の宮家は皇室から民間へと降下され、日本国の総氏神であらせられた伊勢の神宮に関しては「宗教法人」となり、国家機関であった内務省から離されるという、大きな危機を余儀無くされたのであります。
それとともに、神領地である「伊勢二見」も、神宮参拝前の禊山であった「音無山」も、ただの山と変わり果てました。
神宮祭祀で最も重要な意味を持つ海没した『興玉神石(おきたましんせき)』についても、音無山との関係を伝える事より、『夫婦岩』を中心とした海だけの観光へと変化したのであります。